-本来「Get Back」として発売されるはずだった"問題作"「Let it be」-
このアルバムの発売までの道のりは文字通り「A long & winding road(長く曲がりくねった道のり)」であった・・・1969年1月22日から1月31日までの間に録音された(散漫な)レコーディング・セッションを編集したアルバム「Get Back」として一応完成(1969年5月28日)しながらも、メンバーが発売に同意しなかったために一旦
お蔵入り・・・したものをベースに、後日、新プロデューサーのフィル・スペクター(Harvey Philip Spector)が、曲目やテイクを一部変更し、大幅な
リミックスを加えて、録音から1年半も経ってから発売したものがこの「Let it be」(1970, 5/8)なのである。製作時期としては前作
「Abbey Road」(1969年2月末~8月末に録音)より早いにもかかわらず、発売時期的には「ビートルズのラスト・アルバム」:内容的にも、ある意味で「ビートルズの終わり」を感じるのにふさわしいアルバムとなっている。その背景にある複雑な事情は、以下の通り・・・
ビートルズの崩壊は1967年の夏に始まる:
1)名作
「Sgt. Pepper's lonely hearts club band」への全力傾注(1967年1月19日~4月3日)と、その発売(6月1日)による頂点への到達
2)名マネージャー、ブライアン・エプスタイン(Brian Epstein)の薬物事故死(1967年8月27日)
3)迷プロジェクト
「Magical mystery tour(TV番組)」の大失敗(1967年12月)
4)銘柄を変えて心機一転を図るべく「EMI」から独立して総合ブランド「Apple Corps Ltd.(アップル・コア)」を設立(1968年1月)
5)
瞑想による精神的安定を求めてインドへ・・・が、マハリシ・マヘシ・ヨギとは
喧嘩別れ(1968年2月~4月)
6)
名曲揃いとは言えなかった「四人の個人作品集」を、誰一人譲らず録音(1968年5月30日~10月14日)&30曲入り二枚組
「The BEATLES」として発売(1968年11月22日)
・・・デビュー前からビートルズの
プロモーションを完璧に仕切ってきたエプスタインの死後、彼らは明らかに迷走を始めているのがわかる。
「Sgt. Pepper's」で芸術家としての頂点を極めてしまったことで、次なる目標を喪失していたことも確かであろう。新たな何かにすがりつくように彼らが手を出した3)~5)のことごとくが、惨めな結末に終わったことは、その後の歴史が解説してくれる。
見る人が見れば、6)の二枚組
「The BEATLES」とて決して"ビートルズの成功作"とは呼べまい。アルバム全体として散漫な印象があるのは、30曲もの
ボリュームのせいだけではない。めいめいが身勝手に(他のメンバーに断わりもなく)自分の好きなように録音したり、他のメンバーのプレイに注文や文句を付けたりするようになり、
横柄・険悪・緊張・
緩慢・
倦怠・
諦観といった否定的雰囲気がスタジオに充満し始めた時期だったのである。
特に、最大の被害者となったのはリンゴ・スターだった。ギター・パートの誰かが欠けても曲にはなるが、リンゴのドラムスはどの曲にも必須のリズムの要なのだから、彼はビートルズの全曲の録音セッションに
皆勤賞を要求されたのである・・・思い思いに来たり来なかったりする他のメンバーを待って、かわいそうなリンゴは、Abbey Roadスタジオのロビーで、客待ちのタクシーの運ちゃんみたいにぼんやりシートに座りっぱなしで新聞ばっか読んで過ごしていたという・・・さすがに温厚なRichard Starkeyも、とうとう
堪忍袋の緒が切れて、「俺はもうビートルズを抜ける!」と言ってスタジオを飛び出してしまう事件まで起こっている(1968年8月22日)。結局、彼は2週間の冷却期間を置いて9月5日にはレコーディングに復帰してくれたが、個人
ベースでめいめいが勝手に来たり来なかったりのアルバム製作では、グループが空中分解してしまうことは、この事例からも明らかだった。
-「四人のアーティスト」から「The Beatles」というバンドに戻るためのポールからの提案-
こうした状況を打ち破るための手段は一つしかない - 「
ライヴ・パフォーマーとしてのビートルズに、
僕らの本来あるべき姿に、立ち戻るんだ!」・・・と、少なくともPaul McCartneyはそう信じた・・・が、他のメンバーは必ずしもそうではなかった。特にGeorge Harrisonが「再びライヴをやる」という考えに猛烈に反対した。John Lennonに至っては「そうまで無理しなくちゃ続けられないっていうんなら、いっそ解散しちゃえばいいんじゃない?」とまで言ったという:この時期、彼にとってはすでに「The Beatles」よりも「Yoko Ono(小野洋子)」の方がずっと大きな存在となっていたので、こうした発言も出たのだろう。「口に出して言ったこと」と「本心」との一致度が他のメンバーよりもかなり低いジョンの発言を
鵜呑みにはできないが、ポールの「ライヴ、やろうよ!」提案にジョンも乗り気でないことだけは間違いなかった。一度バンドを抜けてまた戻ってきた
Ringo Starrは、口ではなんにも言わないけれど、「君たちがやる、って言うんなら、僕もドラムは叩くけどね・・・」という消極的な
スタンスだったのは明らかである。
それでもとにかくバンドとしてのビートルズを取りまとめようとがんばるポールの説得で、コンサート・ツアーにはしないものの、1回限りの生放送で全世界に - そう、あの世界中で4億人の人々が見たという1967年6月25日のBBC放送の生中継番組「Our World(アワ・ワールド)」で「All you need is love(愛こそはすべて)」を歌った時のように - 「ライヴ・パフォーマーの姿に立ち戻ったビートルズの生演奏」をTV中継して世界中の人達に見てもらおう、という企画が、のそのそと動き出したのであった。
-「Abbey Road(アビー・ロード)」から「Twickenham(トゥイッケンナム)」へ-
生放送当日の映像に加えて、要所・要所で流す盛り立て役に使えるように、久々のライヴ演奏に備えてリハーサルするビートルズの姿をも、映像に収めなければならない・・・そのためには、慣れ親しんだAbbey Roadスタジオは窮屈すぎて撮影には不向きだった。第一、
「Revolver」以来「つぎはぎ音楽の加工場」と化した感のあるこのスタジオは、「ライヴ・パフォーマーとしてのビートルズ」の姿を見せる場としても
相応しくなかった・・・代わりに選ばれた演奏+映像の製作現場は「
トゥイッケンナム・フィルム・スタジオ」。この場所で、1969年1月2日から、ポール主導による「the
Get Back Project(昔の僕らに戻ろうよ!計画)」が展開されることになる・・・はずだった。
だが、この計画は走り出した
途端に
破綻をきたす。ライヴ計画に一番強い
嫌悪感をあらわにしていたジョージが、1月10日、ポールといさかいを起こして、かつてのリンゴと同じようにグループを"脱退"してしまったのである・・・結局数日後には(5ヶ月前のリンゴ同様)戻ってきたものの、「君たちのTVライヴ・ショーには、僕は出ないよ」との態度は崩さなかった・・・こうして、結局、TVライヴ計画は立ち消えになってしまったのである。
-「ライヴ・リハーサル映像」から「アルバム・メイキング・フィルム」へ-
生ライヴのTV放送もしないのであれば、そのリハーサル映像を撮影することに何の意味もない・・・はずだったのだが、ここで計画は
急遽変更となる:次回作のアルバムを製作し、その製作過程の一部始終を「
メイキング・ビデオ」として世界中の人達に見てもらおう、というのである・・・そのためには、この(音楽録音スタジオではない映画撮影用の)
トゥイッケンナム・フィルム・スタジオは不向きである・・・こうして「ゲット・バック計画」の舞台は再び移ることになる:1968年1月にビートルズ関連のすべての事業を総括的に扱う会社として設立された「Apple Corps Ltd.(アップル・コア)」の、
ロンドンの中でもとってもお堅い「仕立屋の街」
サヴィル・ロウにオープンした本社ビル地下に作られた録音スタジオ(通称「Apple Studios:アップル・スタジオ」)へ、と。
-「エレクトロニック音楽」から「ライヴ・ミュージック」へ-
元々は「全世界生中継TVライヴ」案から始まったこの「新アルバム製作+メイキング映像撮影」企画は、1966年以降ビートルズが開拓し発展させてきた「電子的手法を用いての複雑な加工処理による楽曲製作」を放棄して「スタジオ内ライヴ演奏」へと回帰する、という新たなアイディアへとつながって行く。つまり
「Revolver」以降のビートルズ音楽に背を向けて、彼らの原点である
「Please please me」時代に立ち戻ろう、というのである。ここに至って、「Get Back(昔に戻るんだ)」の
合言葉は、摩擦の目立つようになってきたビートルズのメンバー間の関係に対してのみ向けられたものではなくなった:「電子音楽を捨てて、生演奏に帰れ。人為を捨てて、自然に帰れ」という二重の意味をも背負うものとなったわけである。
そうした彼らの
コンセプトを視覚的に印象づけるために、この新アルバム「Get Back」のジャケットには、あの(1963, 2/11のたった一日のライヴ演奏で10曲を録音して一気に作ったアルバムである)
「Please please me」と同じもの=あれから6年後のビートルズの姿を、全く同じ図柄で撮影したもの(EMIビルディングの内部吹き抜けの下方から仰ぐようにして写した笑顔の四人の姿)を使うことが決まった(・・・結局、アルバム自体が没になったため日の目を見なかったこの幻のジャケット写真は、後日、1973年に発売されたベスト盤「
The Beatles 1967~1970」の表紙で復活を遂げることになる:ただし、アングルはやや異なる)。
-ビートルズ初の「正式雇用の外部ミュージシャン」-
こうして、電子音楽を捨ててギター3本+ドラムスという「
懐かしの
FAB FOUR」時代の演奏スタイルに立ち戻ることが決定されると同時に、電子的加工を「封じ手」としたことで失われる音の厚みを補うための措置として、キーボード(電子オルガン)プレイヤーのビリー・プレストン(Billy Preston)をセッションに参加させることが決定された。これは主にジョージの発案によるとされるが、この「ビートルズ初の"正規"
外部ミュージシャン」の存在は、険悪だった四人の雰囲気を緩和し、どん底状態にあった(ポール以外の)メンバーのやる気を向上させる効果を(多少は)もたらしたようである。自分達どうしの間では遠慮なしに
剥き出しになって否定的・攻撃的に暴れ回る彼ら四人の
エゴが、外部から招かれたプロの友人が加わると
途端に(良い意味での)プロフェッショナル・ムードに早変わりし、彼らの
パフォーマンスを大いに盛り上げる効果は、あのホワイト・アルバムのセッションで「While my guitar gently weeps」にジョージの親友エリック・クラプトン(Eric Clapton)をリード・ギターとして引っ張り込んだ例(1968, 9/6)にも明らかである(同時プレイではなく
オーバー・ダビングの形で、だが、彼の見事なギター・プレイを聴いて刺激を受けたビートルズのメンバーは、それまでのダラケムードから本気モードに一気に変わったという)。・・・なんのかんの言っても、人前に出た時のビートルズは、本能的に、負けん気の強いエンターティナー(entertainers=人々を喜ばせるべく何かを演じることに喜びを見出す人々)だったのだ。
-伝説のライヴ2本-
彼らのそんな「よそ行きの
パフォーマンスなら、本気モードで、それなり以上のものを出す」姿が見られるのが、あの伝説の「Apple本社ビル屋上での
サプライズ・ライヴ」である。
トゥイッケンナム・フィルム・スタジオからアップル・スタジオへとリハーサル・セッションの場を移してからほぼ1週間後の1月30日、ビルの屋上に演奏+録音+撮影機材を持ち出したビートルズの四人とビリー・プレストンは、全くの
ゲリラ・スタイルで、出し抜けに42分間の「無料コンサート」を演じたのであった。演奏されたのは次の8曲:
1)Get back
2)Don't let me down
3)I've got a feeling
4)The one after 909
5)Dig a pony
6)I've got a feeling
7)Don't let me down
8)Get back
・・・同じ曲が繰り返し演奏されていることからもわかる通り、「屋内ではそこそこうまく行くようになった曲のリハーサルを、人前で演じてみたらどの程度うまく行くか」のお試し演奏の感が強い(例によってこれもポールのアイディア。彼がこれを思い付たのは実演4日前の1/26)。もしかしたら、上出来のパフォーマンスが得られるまで、アルバム一枚分の曲を徹底的にライヴ演奏+録音して「Get Back」プロジェクトを一気に完結させてしまおう、という野心をもって
臨んだ彼ら(あるいは、ポール)だったかもしれないが、ロンドンの厳しい寒さと、駆け付けた警察官の制止によって、このライヴ演奏は強制終了の
憂き目を見ている(皮肉なことに、最後の曲はアルバム・タイトル曲の「Get Back」である・・・)。
ともあれ、この時の模様(を約半分に編集したもの)が後に映画「Let it be」の最後の
クライマックス部分で用いられたため、これは「史上最も名高い
ゲリラ・ライヴ・パフォーマンス」として語り継がれることになったのである;が、歴史に残るライヴ演奏ということで言うならば、翌1969年1月31日に、同ビル地下のアップル・スタジオで行なわれた(部外者には非公開の)ライヴ・セッションの重みの方が上かもしれない:これが
正真正銘、「The Beatles」の最後のライヴ・パフォーマンス(=スタジオ内での個別的な録音作業の寄せ集めでない、四人全員一丸となって取り組んだ最後の生演奏)となったのだから。
-「生ライヴ録音盤」から「スタジオ録音編集盤」へ-
こうして最後のライヴ演奏を終えたビートルズ+ビリー・プレストンだったが、例の「1/30屋上ゲリラ・ライヴ」も、それ以外の生演奏のいかなる場面も、それだけポンと切り出してアルバムに収めても聴き応えのあるような出来のよい音楽では全然なかった。録音テープ(+映像)自体は山ほど残ったが、魅力的なトラックを形成できるような素材は乏しかった。
ここに至って、とうとう当初の「ライヴ・アルバム」案は放棄されることになる・・・録音された素材の中の、出来の良い部分だけを切り出し、寄せ集めて、どうにかこうにか「ビートルズのアルバム」として聴ける水準の楽曲集に仕上げてしまえ、ということになったのである。この何ともしんどい仕事を
宛がわれたのは、エンジニアのグリン・ジョーンズ(Glyn Johns)。1969年3月10日、ジョンとポールからアビー・ロード・スタジオに呼び出された彼は、山と積まれた8トラックの録音テープ(最後のライヴから6週間も放置されていた1/22~1/31のスタジオ・セッションの「忘れ形見」)を託されて、「良いとこ取りの
パッチワークで作った(もはやライヴではない)Get Backアルバム」の作成作業を"
丸投げ"されたのである。
あまり魅力的な素材(仕事)ではないとはいえ、とにもかくにも「あのビートルズのアルバム製作」を全権委任されたグリン・ジョーンズは、仕事場として「
オリンピック・サウンド・スタジオ」を選び(これでこの"ライヴ盤"の舞台は3つに増えた)、根気のいる
健気な作業を積み重ねた結果として、1969年5月28日、「切り貼り版のGet Backアルバム」を、以下のような曲目で完成させるのである:
A1)The one after 909
...間奏にJohn&Paulのハーモニーによる「
Save the last dance for me」の一節が入る
A2)Don't let me down
A3)Dig a pony
A4)I've got a feeling
A5)Get back
B1)For you blue
B2)Teddy boy...後にPaulが初ソロアルバム「McCartney」で発表した曲
B3)Two of us
B4)Maggie Mae
B5)Dig it
B6)Let it be
B7)The long and winding road
...最後にPaulの笑い声を交えた「Get back」の一節で
フェード・アウトして終わり
こうして録音から4ヶ月後にようやく完成したアルバム「Get Back」だったが、元々の素材が「ビートルズの水準としては、最低」のものだっただけに、グリン・ジョーンズの労作は、あえなく「没」となり、日の目を見ずにほぼ1年の眠りにつくことになる(彼はその後も頑張って作業を続け、曲順やアレンジを変えた1970年版の「Get Back」をも作ったのだが、それもまた
徒労の上塗りに過ぎなかった)。
-「Get Back(昔に戻ろうよ!)」から「Let it be(もう、どうにでもなれ)」へ-
1970年に入ってから、長い休眠状態にあった「Get Back」アルバムの再編集作業に駆り出されたのは、フィル・スペクター(Harvey Philip Spector)であった。ビートルズも
ハンブルグ時代から好んで取り上げた「
To know him is to love him」というヒット曲(1958)を持つThe Teddy Bearsというグループのメンバーだった彼は、原音の上に様々な音響効果を加えてこれを"化け"させてしまう音楽プロデューサー(口の悪い人に言わせれば「
オーヴァー・メイキングの帝王」)で、彼のプロデュースした曲には「ザ・フィル・スペクター・サウンド」という形容が用いられるほどのアクの強い音作りをする人物。ある意味で、
素のままではどうにもならないほど魅力に欠けていた「Get Back」に生気を与えて
甦らせるにはこの人しかいない、という適材適所の人選と言えたかもしれない。
1970年1月に入ってから新たに録音し直されたジョージの「I me mine」と、1968年2月4日にジョンが録音し、1969年12月にWWF(World Wildlife Fund=世界野生生物基金・・・現World Wild Fund for Nature=世界自然保護基金)の
チャリティ・アルバム「
NO ONE'S GONNA CHANGE OUR WORLD」の目玉曲として話題になったものの正規のビートルズ・ナンバーとしてはずっと未発表のままだった「Across the universe」を加え、既録音曲にも大幅な
アレンジを加えた末に完成した「元Get Backアルバム」は、タイトルも「Let it be」に変えて、新たな(そしてビートルズ最後の)アルバムとして、1970年5月8日、ようやく日の目を見ることとなる。
音楽の録音と同時進行で撮影されていた(1969年初頭の冷え切ったビートルズの人間関係を
赤裸々に物語る低調な)レコーディング・セッションの映像を編集した映画が、やはり「Let it be」のタイトルで
全世界に向けて放映されたのは、アルバム発表の約1週間後の1970, 5/13・・・タイトルが物語る通り、もはや「
なるようになれ」という投げやりな(ポール以外の)ビートルズの
醒めた態度に、かつての
「A hard day's night(ビートルズがやって来る ヤア!ヤア!ヤア!)」に胸躍らせた観客たちは、彼らの時代の終わりをいやが上にも感じざるを得なかった・・・既に1ヶ月前の1970年4月10日、Paul McCartneyの「ビートルズ脱退宣言」が、イギリスの大衆紙Daily Mirror(デイリー・ミラー)に掲載され、世界中を電撃的に
駆けめぐっていた・・・「The Beatles」が、
否、彼らが引っ張ってきた刺激に満ちた1960年代という時代が、いま、確実に終わったのだった・・・